2006年12月20日発行 第94号 |
座間市12月議会開かれる
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座間市議会第四回定例会は12月1日から22日までの会期で開かれました。 |
神奈川知事選
かもい洋子氏擁立 平和な神奈川をめざして |
かもい洋子氏が神奈川県知事選挙(来年3月22日告示、4月8日投票)に「平和ですみよい神奈川民主県政をつくる会」から擁立されてたたかうことになりました。かもい洋子氏は市内南栗原に在住し、「キャンプ座間への米陸軍第一軍団司令部の移転に反対する座間・相模原・周辺連絡会」共同代表として、この間活動してきた経験から「米軍再編に反対と言える知事を誕生させなければいけない、この思いで決意しました」と語っています。 そして「くらしの目線で、福祉や教育やくらしのところに税金が使われるようにしたい」として「七つの約束」という公約を発表しています。党市議団としても頑張る決意です。 |
二転・三転して定まらない
消防庁舎立て替え問題 |
座間市の消防庁舎は、築36年経過し老朽化が著しく、その建て替えがもとめられてきました。災害時には市の重要な拠点としての機能を果たすためにも、それにふさわしい建て替え整備が必要だと言われて久しいものがあります。 第三次座間市総合計画の中でも消防合同庁舎、訓練施設など消防活動拠点の整備充実に努めますと掲げています。しかし、一向に進展しないのは場所と用地問題にあります。 現在地は、地盤が悪いので他に設けることになり、助役を長とする消防庁舎建設検討委員会に2年間に亘って検討させ答申させた候補地を、市長自らがくつ返し、入谷方面の第三の土地を検討するよう指示したのです。 しかし、この候補地は、地形等から言ってもともと消防庁舎建設用地の対象になりえない場所でした。そして、あらためて調査した結果、地質的に問題が無いので現在位置で建て替えていくとの方針が示され、振り出しに戻った形になりました。 ところが、国が広域化の方針を打ち出したので、広域化の方向が定まってから消防庁舎問題を対応することになったとして、棚上げにしてしまっているのです。 しかし、広域化については、県も含め関係市との間でまだ検討・協議さえされていないのです。消防職員からは、事務所や更衣室が手狭で困っている、仮眠室が大部屋での雑魚寝という状況で十分な休息がとれないので改善して欲しいとの切実な要望が出されています。消防庁舎建て替えが急がれているのに、長年に亘り、二転三転していることは問題であり、市長の責任は重いと党市議団は指摘しています。 |
―県知事選―
かもい洋子氏を励ます新年の集い |
日時:2007年1月21日(日) 午後5時〜7時 場所:ひまわり喫茶室 (ハーモニーホール隣り) 会費:1.000円 食事とコーヒー 地元からみんなで励ましましょう! 主催:励ます集い実行委員会(仮称) |
70年に及ぶ基地の犠牲と負担
その歴史的事実とは ―その1― |
座間市と相模原市の両市民は、これまでに70年に及ぶ基地の犠牲と負担を強いられてきた。その上、黙っていては100年先も基地の街という思いに立って、これ以上の基地の強化・恒久化を許さないという立場から米軍再編成を容認していません。そして、米陸軍第一軍団司令部の改変された新司令部が、キャンプ座間に米本国から移転設置され、それに合わせて陸上自衛隊中央即応集団司令部が設置されることに反対してきています。 しかし、70年に及ぶ基地の犠牲と負担と言われながら、それがどんなものであったかということが具体的に明らかにされないできています。そこで、党市議団は70年に及ぶ基地の歴史を振りかえり座間の町民・市民が強いられてきた犠牲と負担の事実を、年代ごとに4回のシリーズで明らかにしていきたいと思います。 陸軍による強制土地買収 陸軍士官学校移転用地 犠牲と負担の第一は、1936(昭和11)年に行われたキャンプ座間の前進である陸軍士官学校の用地の買収です。同年6月27日、陸軍第一師団経理部川上少佐と高山大尉が座間役場に来て、新磯村、麻溝村、大野村の村長を電話で呼び出した。そして、4人の村長に対して、陸軍士官学校を座間村と新磯村に、東京郊外練兵場を新磯村、麻溝村、大野村の地域に造りたいので、約200万坪(約660万平方メートル)の土地の買収に応じてもらいたいと、突然の申し出であった。軍部は早急に成立させたいとしていたが、いくら国家の非常時とはいえ、広大な地域であり土地を提供した場合には、耕地を全部か大部分失うことになり、失業者が多数にのばることが予想され地元にとっては大変なことであった。 しかも軍の買収単価の予定価格は1反歩当たり200円で、当時の座間の相場は1反歩当たり田畑が700円、山林が350円で大きな隔たりがあった。その上、軍は土地を追われた失業者対策を全く考えていなかった。 一等地の桑畑 軍の命令に逆らえなかった 当時の稲垣許四郎座間村長は、買収予定地域の地主を集め数度に亘って説明会を行った。 士官学校の予定地は、座間の通称「上の原」一帯で、元来この地は座間では一等地と言われた土地で大部分が桑畑であった。当時の農家にとって養蚕業は唯一の換金作業であったため、この桑畑が無くなれば誠に死活問題であった。座間の耕作人数は121人で、その地主等の相談会の席上には、軍服を着、胸に勲章を一杯つけて来た川上少佐が「陸軍大臣の命令を受けてやって来た」と言って村民に対応し、村民の言い分が気にいらないと、すぐ軍刀の鞘の先で床を叩いて文句を言ったという。 そして、憲兵が会場の周囲をうろついている状況では、最終的には「お国のために」ということで条件付きではあったが同年7月中に買収を承諾させられている。 磯部、勝坂で3人自殺者 座間の実際買収面積は、田畑8万3,700坪、その他20,400坪、合計104,100坪であるが、同年10月には富士山公園を含む南側3万坪を買収している。買収交渉は8月にずれこんだが実際の買収価格は座間の場合、1反歩当たり711円、山林360円であったという。 お国のために承諾はしたが、内心は困った≠ニ思う人が多勢いた。とりわけ新磯村108戸、麻溝村80戸の失業者が生まれた。軍が失業者対策を持たない中で、磯部、勝坂で3人の自殺者が出ている。 軍はこのような中で士官学校の建設を強行し、同年10月20日に起工式、翌年(昭和12年)9月30日に陸軍士官学校本部及び生徒主力隊を東京市ヶ谷台から移転させた。そして、同年12月20日天皇行幸のもとに陸軍士官学校第50回卒業式を挙行している。 この日に合わせて、座間村から座間町へと町制を敷いた。町となった当時の人口6,555人戸数は1,138戸であった。(次号にづづく) |
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